泰明画廊
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楊 三 郎 展
YANG SAN LANG Exhibition
2025年4月18日(金) ~ 26日(土)
[営業時間] 月- 金曜日/10:30-18:30
土・日曜日/11:00-17:00
*会期中無休
[会場] 泰明画廊
東京都中央区銀座7-3-5
ヒューリック銀座7丁目ビル1階
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  楊三郎美術館 (台湾 / 新北市) 
楊三郎展 2021年 作品集
 
  «畫我台灣» 楊三郎的山海風物 (公視 PTS 臺灣)
日本と西洋に学んで確立した「台湾人による油絵」
 台湾人洋画家・楊三郎の絵画のルーツは日本にあります。
 日本統治下の台湾に生まれた彼は、小学校への通学途中に塩月桃甫の絵画を見たことが、画家を目指す最初のきっかけとなりました。その後、10代のうちに日本へ留学し、関西美術院で黒田重太郎に師事しながら研鑽を積みます。フォンタネージの教えが色濃く残るこの時代、日本人洋画家たちが「日本的絵画」を確立する一方で、楊三郎は生涯を通じて「台湾人による油絵」を模索し続け、日台双方で評価を得るようになりました。
 第二次世界大戦後、日本の台湾統治は1945年9月に終わり、その後、日本文化の一掃が進められ、国画論争が巻き起こります。日本で美術を学んだ楊三郎らは、しばらくの間、不遇の時代を迎えますが、それでも台湾美術史の発展に尽力し続け、やがて再び脚光を浴びることとなります。1992年には、その功績が認められ、楊三郎は台湾国家文化勲章を受章しました。
 社会情勢や政治の混沌を断ち切るように、彼は88歳まで世界中を訪れ、各地の風景を描き続けます。明るく爽やかな晴れの日の風景を多く残したことからも、常に外光を意識し、屋外制作へのこだわりが感じられます。力強い筆致や重厚な赤、こってりした黄色は、まるでその景色の温度までも伝えるようです。また、画面に描かれた木々や地面を観察すると、季節の移ろいが手に取るように感じられます。
 2021年に泰明画廊で開催された展覧会は、台湾洋画家の巨匠による日本初の回顧展ということもあり、コロナ禍にもかかわらず多くの方にご来場いただき、盛況のうちに終了しました。そして今回、4年ぶりとなる2度目の回顧展を開催いたします。ぜひこの機会にご高覧ください。
楊三郎(日本時代の名前:楊佐三郎 SASABURO YO)
1907 台北市網溪(現・新北市永和区)父楊仲佐(永和市初代市長)母曾淑人(李登輝閣下夫人の叔母にあたる)の第三子として生まれる。
1923 基隆から商船「稲葉丸」で日本へ留学。
1924 京都の関西美術院に入学し、黑田重太郎と田中善之助に師事。
1927 作品《復活節時候》で第一回台湾美術展覧会(台展)に入選。
1928 作品《靜物》で第二回台展に入選。
第六回日本春陽展に入選。
陳澄波、陳植棋などの14人と「赤島社」を成立。
1929 関西美術院から卒業して帰国。
作品《靜物》が第三回台展で特選を取る。
作品《台灣風景》で日本全関西美展に入選。
作品《村之入口》、《滿洲風景》で第七回日本春陽展に入選。
1930 作品《靜物》で第四回台展に入選。
作品《南支鄉社》で第八回日本春陽展に入選。
1931 作品《婦人像》が第三回赤島社展に参加。
作品《廈門風景》、《福州郊外》で第九回日本春陽展に入選。
1932 画家劉啓祥と一緒にパリへ学習に行く。
作品《塞納河》でフランスの秋サロンに入選。
1933 作品《巴黎初春》、《法國莫列風景》が第七回台展で特選を受賞。
第十一回日本春陽展に入選。
1934 第十二回日本春陽展に入選。
李梅樹、陳澄波、廖繼春などの数人と「台陽美術協會」を設立。(此の協会は現在でも台湾芸術の主流として活躍中)
呂鐵州、陳敬輝、曹秋圃たちと「六硯会」を結成。
1935 第十三回日本春陽展に入選し、春陽会会員に推薦される。
1962 国立芸術専門学校と私立中国文化学院(現文化大学)で教壇に立つ。
1986 第十一回国家文芸賞特別貢献賞を受賞。
1991 「楊三郎美術館」を設立。
1992 台湾国家文化勲章を受賞。
1995 大統領表彰 華夏一等賞を受賞。
享年88歳で逝去。
民間人として初めて国葬される。
©  2000 -   TAIMEI GALLERY

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