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1905年 |
(明治38年) |
0歳 |
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台湾総督府財務局事務官を務め、後に台湾瓦斯の専務となった立石義雄の五男として、台北で生まれる。 |
1911年 |
(明治44年) |
6歳 |
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父の内地転勤に伴い帰国。 |
1919年 |
(大正8年) |
14歳 |
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鎌倉に転居。 |
1921年 |
(大正10年) |
16歳 |
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日本画家を志し川端画学校に入門。 |
1926年 |
(大正15年) |
21歳 |
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洋画に転向。当時鎌倉の長谷に住んでいた岸田劉生に師事。 |
1932年 |
(昭和7年) |
27歳 |
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国画会に出品した全作品6点が2年連続で「国画奨学賞」に選ばれる。 |
台湾時代 |
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1933年 |
(昭和8年) |
28歳 |
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国画会会友となる。梅原龍三郎の勧めで同年1月から3月にかけて渡台。その後43歳まで3度渡台し、都合11年滞在した。 |
1934年 |
(昭和9年) |
29歳 |
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7月 渡台(1936年3月まで)。
台湾人画家7名(楊三郎、陳澄波、陳清汾、李梅樹、李石樵、廖繼春、顔水龍)と「台湾美術協会」の創立に参画。 |
1935年 |
(昭和10年) |
30歳 |
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第9回台展で「赤光」が特選推薦台展賞を受賞。 |
1936年 |
(昭和11年) |
31歳 |
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9月に新宿の天城画廊主催の「第1回各派選抜新人連続個人展覧会」に梅原龍三郎の推薦で国画会代表として出品。この時の他派の代表は、春陽会は原精一。独立は森芳雄、二科は長谷川利行であった。 |
1939年 |
(昭和14年) |
34歳 |
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台北帝大教授の素木得一の招きにより、理農学部嘱託して渡台し、標本画に従事した。これを機会に細密画描法を自得。 |
1941年 |
(昭和16年) |
36歳 |
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「民族台湾」の編集に参加し「台湾民俗図絵」の版画制作に取り組む(昭和20年1月の廃刊まで43号刊行された)。その後新聞や雑誌等の多くの出版物において装画、挿絵を担当。 |
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「台湾民俗図絵」は今日の台湾近代美術史にその名を留め、民俗研究者、学者、作家、一般知識人など、多くの台湾人から支持を得ている。(森美根子著「台湾を描いた画家たち」より引用) |
1945年 |
(昭和20年) |
40歳 |
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終戦。戦後、中華民国政府に留用され、台大医学院、台大文学院において資料図の作成に従事。 |
1948年 |
(昭和23年) |
43歳 |
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12月5日最終引揚船で帰国。 |
※台湾時代の作品の多くが、帰国時の荷物制限より現地に残したため、現在その多くの所在が不明である。 |
戦後-1950年代 |
※戦後は戦前の写実的風景画から抽象的な幻想作品へと一変する。 |
1950年 |
(昭和25年) |
45歳 |
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第24回国画会展に「孤独」・「白牛」を出品。 |
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第1回型生派展(日本橋 三越)に「けしの花の幻想」・「虚空(孤独)」・「流木」を出品。 |
1951年 |
(昭和26年) |
46歳 |
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第25回国画会展に「偽装驢馬」を出品。 |
1953年 |
(昭和28年) |
48歳 |
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東京近代美術館主催「抽象と幻想展」に「虚空」を出品。 |
1954年 |
(昭和29年) |
49歳 |
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第28回国画会展に「流転」を出品。 |
1958年 |
(昭和33年) |
53歳 |
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第32回国画会展に「傾斜都市」を出品。 |
1959年 |
(昭和34年) |
54歳 |
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第33回国画会展に「うに」・「くらげ」を出品。 |
1960年代 |
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1960年 |
(昭和35年) |
55歳 |
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東京近代美術館主催「超現実絵画の展開展」に「けしの花の幻想」を出品。 |
1962年 |
(昭和37年) |
57歳 |
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画文集「台湾画冊」完成。 |
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この画冊は、「民族台湾」刊行時に制作した「台湾民俗図絵」をもとにして描かれ、前編「FORMOSA」と後編「山地篇・兵士篇・日僑篇」の二部構成になっており、台湾の風俗や台湾人の日常生活のほかに、画家自身の出征や留用にまつわる話、そして引き揚げ時の様子などが、ユーモアとペーソースを交えて淡々と綴られており、全編をとおして鐵臣の望郷の詩となっている。(森美根子著「台湾を描いた画家たち」より引用) |
1963年 |
(昭和38年) |
58歳 |
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鎌倉近代美術館主催「昭和初期洋画展」に「日輪」を出品。 |
1969年 |
(昭和44年) |
64歳 |
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東京の美学校の細密画工房の講師になり、昆虫などを描く図鑑等の標本画の制作をする。 |
1970年代 |
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1970年 |
(昭和45年) |
65歳 |
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第44回国画会展に「追憶の碑」を出品。 |
1971年 |
(昭和46年) |
66歳 |
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第45回国画会展に「飛鳥(李朝狼火台)」を出品。 |
1972年 |
(昭和47年) |
67歳 |
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第46回国画会展に「月に献ず」を出品。 |
1973年 |
(昭和48年) |
68歳 |
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第47回国画会展に「春」を出品。 |
1974年 |
(昭和49年) |
69歳 |
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第48回国画会展に「旅-網走」を出品。 |
1975年 |
(昭和50年) |
70歳 |
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第49回国画会展に「円舞」を出品。 |
1976年 |
(昭和51年) |
71歳 |
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第50回国画会展に「水紋」を出品。 |
1977年 |
(昭和52年) |
72歳 |
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第51回国画会展に「身辺 秋から冬へ」を出品。 |
1978年 |
(昭和53年) |
73歳 |
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第52回国画会展に「散椿」を出品。 |
1979年 |
(昭和54年) |
74歳 |
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第53回国画会展に「夕月」を出品。
1928年(昭和3年)の国画会第3回展初入選以来、この年の第53回展まで連続出品。 |
1980年 |
(昭和55年) |
75歳 |
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4月9日肺癌のため逝去。 |