1933年 |
(昭和8年) |
28歳 |
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国画会会友となる。梅原龍三郎の勧めで同年1月から3月にかけて渡台。その後43歳まで3度渡台し、都合11年滞在した。 |
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「 東門の朝 」 S.M. 1933年 |
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1934年 |
(昭和9年) |
29歳 |
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7月 渡台(1936年3月まで)。
台湾人画家7名(楊三郎、陳澄波、陳清汾、李梅樹、李石樵、廖繼春、顔水龍)と「台湾美術協会」の創立に参画。 |
1935年 |
(昭和10年) |
30歳 |
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第9回台展で「赤光」が特選推薦台展賞を受賞。 |
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「 赤 光 」 1935年
第9回台展 特選推薦台展賞 |
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「 台湾風景 」 1936年 |
「 海辺の家 」 1936年
第10回台展 特選推薦台展賞 |
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「 竹筏風景 」 1935年 |
「 壁・道・雲 」 1941年
第4回府展 |
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「 眞昼雲 」 1943年 |
「 1935年7月5日 関廟庄花園にて 」 水彩 |
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1936年 |
(昭和11年) |
31歳 |
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9月に新宿の天城画廊主催の「第1回各派選抜新人連続個人展覧会」に梅原龍三郎の推薦で国画会代表として出品。この時の他派の代表は、春陽会は原精一。独立は森芳雄、二科は長谷川利行であった。 |
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「 七里ヶ浜 」 3F 1936年 |
「 日 輪 」 10F 1938年
昭和初期洋画展(鎌倉近代美術館・1963年)
国画会40年の展望展(日本橋三越・1966年) |
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1939年 |
(昭和14年) |
34歳 |
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台北帝大教授の素木得一の招きにより、理農学部嘱託して渡台し、標本画に従事した。これを機会に細密画描法を自得。 |
1941年 |
(昭和16年) |
36歳 |
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「民族台湾」の編集に参加し「台湾民俗図絵」の版画制作に取り組む(昭和20年1月の廃刊まで43号刊行された)。その後新聞や雑誌等の多くの出版物において装画、挿絵を担当。 |
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「台湾民俗図絵」は今日の台湾近代美術史にその名を留め、民俗研究者、学者、作家、一般知識人など、多くの台湾人から支持を得ている。(森美根子著「台湾を描いた画家たち」より引用) |
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1945年 |
(昭和20年) |
40歳 |
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終戦。戦後、中華民国政府に留用され、台大医学院、台大文学院において資料図の作成に従事。 |
1948年 |
(昭和23年) |
43歳 |
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12月5日最終引揚船で帰国。 |
※台湾時代の作品の多くが、帰国時の荷物制限より現地に残したため、現在その多くの所在が不明である。 |