泰明画廊
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楊三郎展
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「 アメリカプロビデンスの晩秋 」1968年
45.5×53.3cm 油彩/キャンバス
台湾の至宝
楊 三 郎 展
YANG SAN LANG Exhibition
2021年6月26日(土) ~ 7月10日(土)
[営業時間] 月- 金曜日/10:30-18:30
土・日曜日/11:00-17:00
*会期中無休
[会場] 泰明画廊
東京都中央区銀座7-3-5
ヒューリック銀座7丁目ビル1階
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終戦後、台湾は日本からの統治時代から解放されたものの、美術界では欧米の前衛的芸術がブームとなり、楊三郎をはじめとする写実派の画家は影を潜めることとなる。楊三郎はそんな世界情勢を振り切るように世界各地を旅し美しい風景を描き続けた。
プロピデンスはアメリカ合衆国ロードアイランド州の州都であり、最大の都市である。
当時、博士号を取得中の息子を訪ねた時、息子が住んでいた赤いアパルトマンを中心に描いた作品である。
作品を見てみると、画面中央には連なった3 階建てのアパルトマンが並んでいる。また、その壁面の前を塞ぐように葉の少ない木立が2 本描かれている。画面右上には教会の思しき青い屋根の尖塔が見える。
秋晴れの青い空に建物の外壁の鮮やかな赤色が映える楊三郎らしい作品である。
 
 「台湾の至宝 楊三郎展」開催記念連載!
1. 楊三郎について
2. 展覧会の見どころ
3. 作品「アメリカ プロビデンスの晩秋」のご紹介
4. 作品「冬のパリ」のご紹介
5. 作品「雪山・日本の白馬」のご紹介
  «畫我台灣» 楊三郎的山海風物 (公視 PTS 臺灣)
楊三郎展 作品集
私の父は一生を通じて絵を描く事に生きがいを感じていました。それは父の若き頃からの日記にも度々書かれていて、「私は絵を描くと本当に幸福を感じる、私は生まれ変わっても又画家になりたい」との言葉にも反映しています。その後、長年の努力の結果、私の父の多彩な作品は台灣の人なら知らない人は少なく1992年には台灣の芸術最高賞である「華夏一等勲章」又次の年には「國家最高文藝勲章」を授かられています。最近の台灣の芸術雑誌に載せられた私の父の記事の出だしのタイトルにこう出ています。
「向台灣美術致敬」歴史的風、時代的浪—逸興遄飛 楊三郞
これを日本語に訳すと「台灣の美術に敬意を表する」です。
歴史の風、時代の波にもかかわらず、なお今も飛び跳ねる楊三郎の絵。
こう言う台灣での評判の私の父の作品を今回日本の皆様に見て貰える事は一人息子の私としては大変嬉しく思っております。
実際に私の父は一生通じての親日家でして日本の画家 梅原龍三郎を初め、多數の画家と親しく交際していて、又数多くの日台文化交流や活動にも主役的存在でした。無論台灣で生まれたと言っても、当時は日本統治下で日本人として生まれ、十歲のとき小学校に通う道の途中に有った絵の具屋に飾っていた日本人画家塩月桃甫氏の絵を見て油絵の魅力に魅され、親の反対にも反して日本に渡航、日本の関西美術学院で勉強後、当時の日本ではエリート美術協会である「春陽会」の会員までなり26歳でフランスのパリに留学、1924年から1934年の閒パリに滞在中の日本人画家と合流し絵の勉強をした父にとっては日本を第二の故郷と考えていたのは当然だと言えるでしよう。パリ留学中の日記では当時同じく留学中の数人の日本人仲間とシヤンゼリゼイ大通りを夜中日本の羽織袴で日本の歌を歌いながら闊歩した事を楽しそうに書いていました。
そう意味も含め、今回の日本での展覧会は父も嬉しく思っていると思います。日本の皆様も父の作品を楽しんで頂ければ大変光栄に存じます!
楊星朗 (Daniel S. Young)
楊三郎(日本時代の名前:楊佐三郎 SASABURO YO)
1907 台北市網溪(現・新北市永和区)父楊仲佐(永和市初代市長)母曾淑人(李登輝閣下夫人の叔母にあたる)の第三子として生まれる。
1923 基隆から商船「稲葉丸」で日本へ留学。
1924 京都の関西美術院に入学し、黑田重太郎と田中善之助に師事。
1927 作品《復活節時候》で第一回台湾美術展覧会(台展)に入選。
1928 作品《靜物》で第二回台展に入選。
第六回日本春陽展に入選。
陳澄波、陳植棋などの14人と「赤島社」を成立。
1929 関西美術院から卒業して帰国。
作品《靜物》が第三回台展で特選を取る。
作品《台灣風景》で日本全関西美展に入選。
作品《村之入口》、《滿洲風景》で第七回日本春陽展に入選。
1930 作品《靜物》で第四回台展に入選。
作品《南支鄉社》で第八回日本春陽展に入選。
1931 作品《婦人像》が第三回赤島社展に参加。
作品《廈門風景》、《福州郊外》で第九回日本春陽展に入選。
1932 画家劉啓祥と一緒にパリへ学習に行く。
作品《塞納河》でフランスの秋サロンに入選。
1933 作品《巴黎初春》、《法國莫列風景》が第七回台展で特選を受賞。
第十一回日本春陽展に入選。
1934 第十二回日本春陽展に入選。
李梅樹、陳澄波、廖繼春などの数人と「台陽美術協會」を設立。(此の協会は現在でも台湾芸術の主流として活躍中)
呂鐵州、陳敬輝、曹秋圃たちと「六硯会」を結成。
1935 第十三回日本春陽展に入選し、春陽会会員に推薦される。
1962 国立芸術専門学校と私立中国文化学院(現文化大学)で教壇に立つ。
1986 第十一回国家文芸賞特別貢献賞を受賞。
1991 「楊三郎美術館」を設立。
1992 台湾国家文化勲章を受賞。
1995 大統領表彰 華夏一等賞を受賞。
享年88歳で逝去。
民間人として初めて国葬される。
©  2000 -   TAIMEI GALLERY

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