泰明画廊
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見直そう、日本の実力作家 !
脇田 和 展
脇田和展 KAZU WAKITA Exhibition 脇田和展
脇田和展
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「 動物園の子 」53.2×45.7cm 「 ドレスメーカー 」53.0×65.2cm 「 ましこと木実 」45.5×37.97cm
初期から子供を重要なモチーフとして詩的な画面を構成し、戦後は、鳥をも好んで画中に取り入れて、「鳥の画家」と呼ばれた脇田和。一途に同じようなモチーフを描き続けているのに惰性的な繰り返しが見られないのは、脇田が様々なフォルムや色調、マチエールを試しては作品に生かしていたからです。生き生きと精一杯制作に取り組む様子は「真面目な遊び」と評されました。気張らない脇田の日常生活が深く滲み出る作品は抒情的で、彼の詩魂を感じることが出来ます。
2024年5月27日(月) ~ 6月5日(水)
[営業時間] 月-金曜日 10:30-18:30 | 土曜日 11:00-17:00 *日曜日休廊
[会場] 泰明画廊    東京都中央区銀座7-3-5 ヒューリック銀座7丁目ビル1階  Google maps
展覧会場の様子
脇田和展 脇田和展 脇田和展
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「 鳩 」31.8×40.9cm 「 二人 」51.3×37.7cm 「 白い鳩 」38.0×45.5cm
脇田和展 脇田和展 脇田和展
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「 黄色の中 」45.6x38.0cm 「 くららの実 」53.0×65.2cm 「 鳥籠を持つ二人の少女 」53×45.5cm
脇田和展 脇田和展 脇田和展
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「 藤の実と鳥 」37.9×45.5cm 「 花と少女 」1957年 60.6×41cm 「 あかしやの実と鳥 」1970年 14.0×18.0cm
脇田和展 脇田和展 脇田和展
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「 白鳩花尽 」30.2×22.8cm 「 時刻を知る鳥 」8.1×45.4cm 「 少年と花瓶 」53.0×45.5cm
 脇田 和 (わきた かず) 1908(明治41)年 - 2005(平成17)年
 <略歴>
1908(明治41)年 6月7日、12人兄弟の次男として東京市赤坂区青山高樹町に生まれる。
父は貿易商社脇田商行を経営。
1921(大正10)年 青山の青南尋常小学校を卒業、青山学院中等部に入学。
図画教師の画家小代為重(白馬会)より油彩・木炭画の手ほどきを受ける。
1923(大正12)年 姉夫妻が三菱商事ベルリン駐在となるのに伴い、青山学院を中退し同行して渡欧。
1924(大正13)年 ドイツ帝室技芸員マックス・ラーベスに師事。
その後、ミュラー・シェンフェルド画塾で学ぶ。
1925(大正14)年 ルリン国立美術学校に入学しエーリッヒ・ウォルスフェルトの教室に入る。
1926(昭和元)年 夏に南ドイツの古都を旅行、イエナ大学のホドラーの壁画、ニュルンベルクのデューラーの家、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークのゴッホの絵に感動する。
1927(昭和2)年 美術学校の夏休みに一時帰国し翌年2月まで滞在。
1928(昭和3)年 神戸より再渡航、カイロ見学。4月より美術学校に登校。カール・ミッヒェル教室でリトグラフとエッチングとアクアチントを、オスカール・ハンゲマン教室で木口木版を学ぶ。同校で銅メダルを受賞し、学校内に単独のアトリエを与えられる。
1930(昭和5)年 ベルリンの自由美術展(フラウエ・クンストシャウ)にデッサンを出品。9月、美術学校より金メダルを授与され同校を卒業。9月18日に父が死去したことにより急遽帰国。
その後10年間、父の会社を継いで会社を経営する一方、画業を続ける。
1932(昭和7)年 太平洋画会に出品、日本の公募展で初入選、第19回光風会展に初出品し入選、船岡賞を受賞。大森新井宿に移転。近くに在住の青山熊治の指導を受ける。帝国美術院第13回展で初入選。大野隆徳研究所に夜間人体デッサンの勉強に通う。
1933(昭和8)年 第20回光風会展で光風会賞を受賞して会員に推挙される。また、日本水彩画会20周年展にパステルの風景画を出品して同会会員に推挙される。第14回帝展で入選。
1934(昭和9)年 大森久ヶ原にアトリエを建築する。
1935(昭和10)年 銀座みゆき通南蛮画廊にて第1回個展を開く。第22回光風会展で光風特賞を受賞。
10月松田文相による帝展改組に反対して、在野展として開設された第二部会に参加し出品作が特選となり昭和洋画奨励賞を受賞する。
1936(昭和11)年 第23回光風会展で光風特賞受賞。5月、春日部たすくと共に満州を旅行。
7月25日、猪熊弦一郎、伊勢正義、小磯良平、内田巌、佐藤敬らと新制作派協会を創立。これに伴い、光風会を退会。11月、第1回新制作派協会展に出品。また、「前進」「向上」を表現した協会のロゴマークをデザインする。以後、生涯にわたって同会を中心に作品を発表する。
1939(昭和14)年 銀座三味堂で個展開催、求龍堂と兜屋の共催。第1回聖戦美術展に出品。
1940(昭和15)年 紀元2600年奉祝展に出品。
1941(昭和16)年 「大東亜建設に捧ぐ」をテーマに展示された第7回新制作派協会展に出品。
1943(昭和18)年 9月、フィリピン、マニラ陸軍報道部勤務となり、44年8月に帰国。
1945(昭和20)年 久ヶ原のアトリエを戦災で焼失、戦前の作品の大部分を失う。 新制作派協会員らとともに神奈川県相模湖付近の藤野村に集団疎開。同地で芸術家村を構想し、藤田嗣治、文士石坂洋次郎らも加わって制作のかたわら、楽団を結成し演奏活動などを行うなどして49年まで滞在する。
1946(昭和21)年 民主主義美術を目標に設立された日本美術会の創立に参加。
1947(昭和22)年 第一回美術団体連合展に新制作派協会も参加し作品をを出品。
1949(昭和24)年 世田谷区代田にアトリエ付の家を購入。
1950(昭和25)年 今泉篤男企画による檀会に参加し、資生堂ギャラリーでの檀会美術展に出品する。
1951(昭和26)年 6月、タケミヤ画廊で滝口修造の企画により小品展を開催。10月には戦後の日本人美術家の国際展参加としては初めての出品となる第1回サンパウロ・ビエンナーレに出品。
1956(昭和31)年 3月よりアメリカ国務省人物交流部の招聘により3ヶ月間アメリカ各地を視察。6月より半年間パリ郊外に滞在。この間、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレに11点出品し、美術評論家のアラン・ジュフロアの高い評価を受ける。9月、第1回グッゲンハイム国際美術賞の日本国内賞を受賞。12月、パリからニューヨークに移る。
1957(昭和32)年 4月、ニューオーリンズ、ニューメキシコ、ロスアンゼルス、ハワイを巡って帰国。
1958(昭和33)年 神奈川県立近代美術館にて川口軌外と2人展。
1959(昭和34)年 東京藝術大学版画教室非常勤講師。
1964(昭和39)年 東京藝術大学助教授。
1968(昭和43)年 東京芸術大学教授に就任。銀座いとう画廊にて個展。
1970(昭和45)年 東京芸術大学教授を退官。軽井沢の住居が完成。
1972(昭和47)年 井上靖の詩による詩画集『北国』『珠江』(求龍堂)を刊行。
1974(昭和49)年 東京セントラル美術館で「脇田和作品展1960-1974」を開催。
『画集脇田和1960-1974』(求龍堂)を刊行。
1982(昭和57)年 『脇田和作品集』(美術出版社)刊行。
1986(昭和61)年 神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館で「脇田和展」を開催。
1991(平成3)年 6月、軽井沢のアトリエ敷地内に「脇田美術館」を開館。
美術館から『脇田和作品集』『随筆集え・ひと・こと』を刊行。
1992(平成4)年 パリ日動画廊、バーゼル・インタナショナル・アートフェアにて脇田和展開催。
1996(平成8)年 10月、パリの吉井画廊で個展を開催。
1998(平成10)年 文化功労者に選ばれる.
1999(平成11)年 東京藝術大学名誉教授。
神戸市立小磯記念美術館で脇田和回顧展開催。
2002(平成14)年 世田谷美術館で脇田和展開催。
2005(平成17)年 9月16日逝去、享年97歳。
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