1905年 |
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8月13日北海道・旭川に生まれる。翌年、父の旭川師団退役にともない上京する。1923年 早稲田第一高等学院入学。この年の9月関東大震災が起こるが、震災直後の夜警当番で高村光太郎と知り合う。 |
1924年 |
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この頃から、最初は自作の詩を携えて、高村光太郎のアトリエをしばし訪れるようになる。 |
1926年 |
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早稲田大学政治経済学部入学。この頃エリザベト・ゴッホ著『回想のゴッホ』(高村光太郎訳)を読む。 |
1927年 |
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高村光太郎と第6回日仏美術展を訪れ、ゴッホ<鰊の静物>に感銘を受ける。4月頃、太平洋画研究所で石膏デッサンの勉強を始めるが、まもなく退所。秋ごろ、本郷絵画研究所に入所するが、翌年退所。 |
1928年 |
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光太郎に川島理一郎を紹介され、川島の主宰する絵画研究会の金曜会に入る。同会で学ぶ山口薫、矢橋六郎を知る。この頃ルドンに傾倒。 |
1929年 |
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第4回国画会展に<木立(中野風景)>が初入選。(1935 年まで出品) |
1933年 |
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この頃より、松本俊介、鶴岡政男らと親交を深める。 |
1935年 |
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金曜会の有志、窪田栄、戸田定、大橋城、吉見庄助、大宮松太郎らと「フォルム」を結成。 |
1936年 |
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第1回フォルム展に出品。新宿の茶房NOVAにおいて靉光、北川實、松本竣介、鶴岡政男と洋画小品展を開く。 |
1937年 |
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自由美術家協会の結成に会友として参加。 |
1938年 |
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自由美術家協会会員に推挙される。金本澄江と結婚。 |
1942年 |
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第1回難波田龍起個人展覧会(銀座・青樹画廊)開催。 |
1954年 |
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第1回現代日本美術展に出品。(1964年まで出品) |
1957年 |
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清水七太郎のすすめで文化服装学院デザイン科講師となる。
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1959年 |
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全道美術協会の会員に推薦される。自由美術家協会を退会。日本抽象派作家協会の設立を構想するが実現せず。 |
1960年 |
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アーサー・フロリーより吉田遠志のアトリエで指導を受け、石版画を制作する。 |
1961年 |
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北海道出身の抽象画家、赤穴宏、上野憲男、小野州一、高橋由明、長谷川晶、藤沢友一、八木保次と北象会を結成。 |
1964年 |
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札幌・大谷短期大学美術科講師となる。 1966年 新宿・厚生年金会館学園棟の玄関ホールの壁画彫刻を8人で共同制作。 |
1969年 |
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文化女子大学室蘭短期大学教授となる。 8月、約三週間イギリス、フランス、イタリア、スイスなどを旅行。 |
1970年 |
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『古代から現代へ』(造形社)を刊行。 |
1971年 |
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紺綬褒章受章。( 76,81,83,85年にも受章) 札幌厚生年金会館の緞帳原画<北海道を描く>を制作。 |
1978年 |
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銅版画集『街と人』『海辺の詩』刊行。 |
1982年 |
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「形象の詩人 難波田龍起展」が北海道・旭川美術館で開催される。 |
1984年 |
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『難波田龍起画集』(講談社)刊行。 1987年 『難波田龍起リトグラフィ集1987』刊行。 |
1988年 |
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第29回毎日芸術賞受賞。 |
1990年 |
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『難波田龍起リトグラフィ集 人と自然の形象』刊行。 |
1991年 |
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『難波田龍起リトグラフィ集 生物的形象』刊行。 |
1992年 |
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『難波田龍起リトグラフィ集 生成の詩』刊行。 |
1994年 |
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「難波田龍起展」が世田谷美術館で開催される。 |
1995年 |
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『難波田龍起銅版画集 古代を想う』刊行。 |
1996年 |
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文化功労者に顕彰される。 |
1997年 |
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8月17日逝去。 |