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昭和2年8月31日、東京に生まれる。
父は高知県の出身で、関西の商社に勤め仕事の関係で東京に転勤。彼末が小学校のとき父親の転勤で北海道の小樽に越した。道立小樽中学校を卒業し陸軍士官学校に学んだ。
その後、昭和20年に東京美術学校油絵科に入学を試みたが、入学試験の面接時、教授の梅原龍三郎に「陸士にいたものがなぜ美術学校を受けるのか」と聞かれ、「小さい頃から美術が好きであったから」と答え、梅原の意にそぐわなかったと見え不合格であった。だが翌年再度挑戦し、同じ質問に同じ答えを返し合格した。梅原は彼末が2度も受験したのでその決意を汲んだと見え梅原龍三郎教室の最後の生徒となったのである。
入学当初に制作した小さな自画像は、密度が濃く色調は黒が主で、後の彼末独自の作風の芽を既に見ることができる。梅原は昭和26年に教授を退官するが、彼末はその翌年の卒業後も東京芸術大学と名を変えた同校に残り助手を務めた。 |
昭和20年代半ばから30年代半ばにかけてはその題材に、サーカスの芸人たちなどシャガールやクレーを思わせるようなものが多く、後の彼末調に比べれば明るい色も多用されており、自分の色調や形の模索の時期であったと思われる。
助手である間に国画会に出品して新人賞そして国画会賞を受賞し、昭和33年西欧学芸研究所より奨学金を受けて渡欧した。渡欧中とくに影響を受けた画家はいないが、戦後の抽象の大流行期にあっては、アンフォルメルや暗い色調が意識するとしないに関わらず作風に影響を与えたのではないかと、後に本人が語っている。帰国後、昭和35年国画会会友賞を受賞し会員となった。
彼末の作風が大きく変貌を遂げるのは昭和40年代中ごろである。時代は大阪万博を迎え日本は明るさと豊かさを手に入れ始めた頃である。ところが彼末の絵はぐっと暗調に転じるのである。黒の調子を追い始め幽暗然とした放ち始める彼末調はこの頃から加速度的に展開する。これだけ黒を多用するようになっても画面は決して濁るわけでもなく、ますます不思議な透明感に支えられ観るものの内への神秘的な感動を生み出していくようになる。
昭和44年東京芸術大学の助教授となり、同55年同大の教授となった。
彼末の発想の根には抽象志向が感じられ、そこに彼末宏の近代性や新しさ、正統性があり、時代をいくら重ねようとも常に新鮮な魅力を感じさせる核となっているのである。
1991(平成3)年10月27日逝去 |
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<略歴> |
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1927年 |
東京に生まれる。 |
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1946年 |
北海道立小樽中学校卒業。 |
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陸軍士官学校を経て東京美術学校 油画科(梅原龍三郎教室)入学。 |
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1952年 |
東京美術学校を首席で卒業。 |
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1954年 |
東京芸術大学油画科助手となる。 |
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国画会出品、新人賞受賞。 |
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1957年 |
国画会賞受賞。 |
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1958年 |
西欧学芸研究所より奨学金を受け 渡欧。 |
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1960年 |
国画会会友賞受賞、会員となる。 |
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1962年 |
国際具象派美術展出品(朝日新聞)。 |
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1963年 |
個展(サエグサ画廊)。 |
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1965年 |
具象絵画の新たなる展開展に出品(国立近代美術館)。 |
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1969年 |
東京芸術大学助教授となる。 |
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1978年 |
個展(日本橋高島屋)。 |
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1980年 |
東京芸術大学油画科教授となる。 |
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1982年 |
個展(日本橋高島屋)。 |
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1985年 |
彼末宏展開催(日本経済新聞社・西武美術館主催)。 |
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1988年 |
東京芸術大学を退官する。 |
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個展(日本橋高島屋)。 |
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1991年 |
彼末宏展開催(6月3日~22日、東京芸術大学美術学部主催・藝術資料館)。 |
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10月27日逝去。 |
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